lassiのブログ

日々の思い付きやひらめきをつらつらと。。

自己責任論者をかばう僕は変わり者ですか?

 

 

幼少期から教育を受ける機会に恵まれている子はたくさんいる。

 

たとえば、近くにそれはそれは高級感漂うマンションがある。僕が最初、外から玄関を見たときにホテルのロビーかと見間違えたくらいの。笑

 

そこにもちろん子供がいる家庭もあるようで、小学生の子たちがそのマンションを出入りしているのをよく見かける。

 

制服を着ているし、みたとこ電車で通学しているらしいので、どうやら私立の小学校のようだ。

(驚くことなかれ。この日本には「小学校受験」なるものが存在する…。)

 

 

あるいは、バイト先に小学生の子が生徒として来ることもある。

塾のほかにもなんだか色々と習い事をさせられているようで、毎週毎日何らかの習い事で遊ぶ時間がないとグチをたれている。

 

 

 

そんな彼らを見れば、ほとんどの人がこう思うわけだ。

 

「あんなに勉強させられてかわいそう。小学生ならもっと遊べばいいのに」と。

 

僕もそう思う。

そんな僕の思いをよそに、気ままに遊べる貴重な時期を勉強にあてて、彼らはきっと今日も頑張っている。

 

「今日の放課後、〇〇公園に集合なー!!」なんて、みんなが楽しげな約束をするのを尻目に一人、毎日頑張っているのだ。

 

 

「そんなに頑張って偉いね〜」と声をかけたくなる。

 

 

 

ところが、彼らがいざ大人になってちょっと成功すると、周りの反応は一変する。

 

「なんだかんだ自分、昔から頑張ってたよなぁ。今の自分があるのは、ずっと努力してきたからだよね。」

 

 

…なんて言おうものなら、

 

「お前は家が金持ちだったから成功したんだろ。運よく恵まれていただけのくせして偉そうに、知った風なことをぬかすな」

 

と、口々に言われることになる。

 

 

そう言いたくなる気持ちもわからなくはない。

親の所得水準と子供の学歴に相関関係があるという事実は、あまりにも有名だ。

 

 

でも、だからといって

「そうだな。あいつが成功したのはたまたま置かれた環境がよかっただけだよな。分かるわ~」

 

という気にもなれない。 

 

 

だって、僕は彼らが頑張っている姿を見てきたから。

遊びたい気持ちを抑え、やりたいことを我慢して、

 

頑張ってきたその姿を知っているから。

 

 

先述したマンションの子たちやバイト先の生徒が将来成功したときに、

 

彼らの過去や努力がそんな風に否定されてしまう社会は、ちょっと歪んでるとさえ思う。

 

 

 

今ちょうどDaiGoの自己責任論が炎上しているけど(ちょうどというか、だからこれを書いてるんだけど)、こういう時に決まって見かけるフレーズがある。

 

「どうせあいつらは俺たち一般人のことなんて分からない」

 

 

 

「あいつら」は、俺たちのことなんて分からない、ねぇ。

 

 

じゃあ逆に聞くけど、

こう言う人らは「あいつら」のこと、分かってるんだろうか。

 

 

 

松丸兄弟を変えた母親の死

 

DaiGoの弟にあたる松丸亮吾さんも現役で東大に入り、なぞ解きゲームで一躍有名になった。

 

今でこそ穏やかでまじめな好青年といった印象の亮吾さんだが、

母親の順子さんを亡くした2012年当時は反抗期真っ盛りの高校生で、グレて学校も行かずゲーセンに入りびたりだったそう。

 

 

実は順子さんの死因となった病気のことは、DaiGoはじめ、息子たちには長い間伏せられていた。

 

グレて母親を遠ざけていた亮吾さんがすべてを知ったのは、順子さんが亡くなる直前のこと。

 

「(今の自分があるのは、母が)ここまで育ててくれたおかげなのに、一度も感謝の言葉を言えなくて…」と、深い後悔を抱えることになった。

 

 

順子さん亡き後の遺品整理。

 

そこで見つけた順子さんの日記の最後に書かれていた、順子さんの目標。

 

 

「もっと頑張れたら、亮吾が大学生になるのを見ること!」

 

 

 

声も出せず、呼吸すら自力ではままならなかった状態で順子さんが記した1行。

 

その1行を目にし、涙を流したそのときから、

亮吾さんは東大進学を目標にしたそうだ。

 

 

「どうしたらもっと点数があげられるか」

「このやり方で本当に成績が上がるのか」

 

1年間勉強に勉強を重ね、

 

ついにつかんだ東大現役合格。

 

母親の願いを実現し、一家全員で喜んだこと。

 

それでも、亮吾さんは自分の母親に合格を直接伝えられなかったことを、今でも後悔していること。

 

DaiGoも、長男でありながら順子さんに最先端の治療を受けさせてあげるだけの資金がなかったことを引きずって、「お金は汚い」という考え方を改めたこと。

 

 

 

「あいつら」は自分たちのことなんて分からない、と人は言うけれど、

自分は相手のことを知る努力もしないで、自分のことはわかってほしいだなんて、

 

そうは問屋が卸さない。

 

 

それぞれの思いを胸につかんだ彼らの今を、「才能のおかげ」「親が金持ちだったから」といって切り捨てるのは、

 

彼らの思いと努力を全否定しているように思う。

 

彼らのあの背景を知ったうえで、そんなことができますか。

 

 

僕にはできないな。

 

 

 

 

ほとんど勢いで書いたので少し冗長かも。

なんだかここらへんで僕自身もう満腹なのでいったん切ります。

 

 

今のところ、つぎは自己責任論者と反対論者、何が彼らを分けるのかについて書くつもりです。

 

 

今までとはガラッと雰囲気を変えてみたけど、

ここまで読んでくれた方はいるんだろうか。笑

 

 

もしいたら…本当にありがたいですよね。

 

ありがとうございました〜!

 

記憶が「一週間」で消えてしまう人のお話

 

こんにちは!

 

ブログの更新って何回やっても変な感じしますね。(笑)

 

 

さて、今日は

 

「記憶が一週間で消えてしまう人のお話」

 

です!

 

 

記憶が「一週間」しかもたない。

 

 

これだけでピンときた人もいるんじゃないでしょうか。

 

 

そう、漫画「一週間フレンズ。」のヒロイン、

 

藤宮香織のことです。

f:id:lassi:20180713154739j:image

f:id:lassi:20180714140055j:image

 

一週間フレンズ。」は、漫画になじみのない僕が読んだ数少ない作品の1つですね。

アニメ化、映画化もされたのでご存知の方はそれなりにいるとは思いますが、

 

一応ざっと紹介すると、

 

 

・「一週間フレンズ。」とは

高校二年生の長谷祐樹は、普段から人と関わろうとせずいつもひとりでいるクラスメイト、
藤宮香織と友達になりたいと思い、彼女に話しかける。
だが、彼女は「私、友達の記憶…一週間で消えちゃうの…」とそれを拒む。
少年との思い出を失い続ける少女と、
その思い出をひとつひとつ紡ぎあげていく少年―。
たくさんの“切なさ”と“ひたむきさ”が詰まった、珠玉のストーリー。

です。(公式HPより)

 

あまりしゃべりすぎるとネタバレになりかねないのでこれくらいで。

(気になった方はぜひご覧になってください!)

 

補足しつつまとめると、

 

「クラスメイトの女の子が、(なぜか)友達との記憶だけを毎週月曜に全て忘れてしまう」わけです。(主人公目線)

 

 

う〜〜ん、切ない!!w

 

それでも主人公は、彼女と友達になろうと奮闘する、そんなお話です。

 

 

友達との記憶が一週間ごとに消えてしまう。

しかも、仲良くなって友達に近づくほど、2人の思い出は彼女の記憶に残らなくなる。

 

 

 

(´・ω・`)

 

 

…(´・ω・`)

 

 

いやそんなことあります?(笑)

 

 

…まぁ~、絶対ないとまでは言いませんが、

少なくとも僕はそのような人に出会ったことはまだないですw

 

そう、

確かに出会ったことはない。

 

でも自分はどうだろう。

自分は彼女のように記憶をなくしてはいないだろうか?

 

 

我ながら大胆な疑問です。

 

前の僕なら、

「そんなわけないでしょw」なんて一蹴していたでしょう。

 

でも今は、「そんなことあるかも」と思っています。

ふとした時にそう気づかされたのです。

 

 

 

僕の考えを大きく変えた日記

 

話は変わりますが、とあるきっかけで去年の3月に僕は日記をつけ始めました。

f:id:lassi:20180713145916j:image

(↑一部の界隈には有名な3年日記です( ^ω^ ))

 

ただ、僕はそれはそれは怠惰な人間なのですぐにため込んでしまいます。

 

仕方ないのでためては思い出しつつまとめて書き、またためて…

 

それを繰り返しているうちに、「あること」に気づいたのです。

 

 

 

 

キーワードは「5日前」

 

当たり前の話ですが、誰でも記憶の限界はありますよね。

でもどれくらいが限界かと聞かれて即答できる人はなかなかいないと思います。

 

たまたまながら、日記のおかげで僕の場合は

「4日間」が記憶の限界だということが分かったのです。

 

ため込んだ分を書こうと思い出すとき、

 

大体3日前の段階でもう記憶が曖昧になってきます。

そして4日前まではおぼろげに思い出せるものの、

 

5日前のこととなるとびっくりするくらい記憶に残っていないのです。

 

 

大学の先生の話も、断片的にしか思い出せない。

もちろん講義のすべてを忘れているわけではありませんが、

覚えてる部分を足したところで10分にもならないでしょう。

授業は75分もあったのに。

 

他にも、

大学で、バイト先で、友達や生徒に何を話したか。

その日、何を考えながら通学していたか。

その日の大学の様子がどうであったか。

 

このレベルになってくると、細かい部分はこれっぽっちも思い出せません。

 

 

僕らはきっと、

 

並みの記憶力はあると言う割に、その裏であまりにも多くのことを忘れてしまっている。

 

そして最悪の場合、(かつて僕がそうだったように)その事実に、その深刻さに気づいてすらいない、なんてこともあるかもしれません。

 

 

…どうでしょう。。

 

 ここまでくると

自分は彼女のように記憶をなくしてはいないだろうか?

というあの問いかけもなかなか笑えなくなってきたんじゃないでしょうか?

 

もちろん、「全く同じ」だと言うつもりはありません。さすがに。笑

 

だって僕らは友達のことを全て忘れてしまうわけではない。

 

 

それでも、やはり彼女に同情できるほどではない、と思うんです。

 

一週間前のことなんてほんの数パーセントしか覚えてないんですから…

 

忘れる量的には大差ないとは思いませんか…?

 

それが何年、何十年と積み重なっていったとき、果たしてどれだけの記憶が残ってるんでしょうか?

 

「友達」に関して言えば、僕は高校の友達さえ、もうかなり忘れています😅

 

(少なくとも、単なるクラスメイトだった田中くんのことを何十年後かに思い出すことは…ごめんね田中くん(・ω・`))

 

 

そう考えてみると、「一週間フレンズ。」のヒロイン藤宮香織は、

僕らが最初に抱く印象ほど異質な存在ではないような気がしています。

 

 

自分の記憶がいかに限定的なものであるか。

これは、日記をつけていなければ気づけませんでした。

 

思わぬ収穫。

やはり、やってみて初めて気づかされることってあるもんですね~。

 

 

まとめ

 

このブログの冒頭を読んで

「友達のこと忘れちゃうなんてかわいそう…」と思った方へ。

 

あなたも同じくらいかわいそうなんです!!!!!

もっと、あなたの日々を大切にできるはず。

 

 

まあ、これは別にスピーチじゃないので、

「日記をつけよう!」と強く主張するつもりはありません✋笑

 

でもやっぱり、何もせず日常のアレコレを忘れていくのはもったいないと思います。

 

だってせっかく何十年も生きていくんですから、

その数パーセントしか思い出せないなんて、なんか損した気分になりませんか??

 

 

 

 

 

ちなみに、

アニメ「一週間フレンズ。」は最後、

主人公のナレーションで締めくくられます。

 

 

思い出は大切だ。

でももっと大切なものがある。

それは、思い出を作り続けることだ。

 

僕もその通りだと思います。

何も考えずに日々を送るだけでは足りない。

 

残されなかった記憶が思い出になることはないからです。

思い出を作ること、残すこと。そして重ねていくこと。

 

 

本当に大切なのは、「思い出がある」状態そのものではなく、

記憶を思い出として残すこと・思い出として再構成し続けること」

ではないでしょうか。

 

 

 

というわけで皆さん、

 

Let's "Record Your Life"!!(言いたかっただけ)

 

 

 

ありがとうございました!

 

 

 

 

 

追記.

 

僕が日記を書くようになったきっかけは、友人のだーらが書いたスピーチ、

 

"Record Your Life"

 

なのですが…

 

 

 

なんと今回、

 

だーらから原稿記載の許可をもらうことができました~~!!👏🏻👏🏻👏🏻

 

 

というわけでここに載せておきます!

全国大会でも入賞したことのある素晴らしいスピーチなので、

 

ぜひご覧ください!

 ↓  ↓  ↓

 

 

 

 

 

 

 

 

何かが変わるわけじゃないけど。

 

 

「この世のすべてのタピオカを手に入れたら、俺は日本中の女子高生と女子大生を従えることができるのではないか」

 

 

他意はない。

この日本社会において最強と謳われるJK・JDといえども、タピオカには敵わないだろう。そう思えるほどに彼らのタピオカへの情熱はすさまじい。

 

そして俺の推理に間違いがなければ、これからの日本では、タピオカをもって彼らを従えた者こそが最強の称号を手に入れることになる。

 

 

フットサルをしに行く準備中、俺は歯を磨きながらそんなことを考えていた。

 

 

 

しかし、そんな妄想は一本の電話によってぶち壊される。

母親からだった。

 

 

「モンタン、死んじゃったって」

 

時が止まった…というようなお決まりのパターンはなく、「ついにか」という淡白な感想しかなかった。それはある程度覚悟をしていたせいなのか、まだ実感が湧いていなかったせいなのかは、今もわからない。

 

 

 

 

電話は、今日中に火葬をするからお前も来い、というものだった。

 

すぐさまフットサルの予定をキャンセルし、モンタンに会いに行くことにした。

 

 

 

 

モンタンとは、祖父の飼い犬のことだ。

ごく普通の柴犬で、いたずらとキャベツの芯と食パンが大好きなオス。

 

 

毎年、休み期間に帰省すれば一緒に遊んでいたし、今年の2月までは祖父の家から大学へ行っていたので、ここ数年はずいぶん長い時間を共に過ごしていたことになる。

 

今年で17歳と、平均寿命よりだいぶ長生きしていた。その分身体のあちこちにガタが来ているようで、目は白内障でほとんど見えておらず、歯は抜け落ち、腰が弱って歩き方もフラフラだった。

 

俺が大学へ通いだしたころから既にそんな調子だったので、本当にいつ別れの時が来てもおかしくないという状態だった。

 

 

どうやら、その時が来たらしい。

 

 

電話を切って残りの身支度を済ませた俺は、鏡の中でほんの少しだけ目を赤くしていた。

 

祖父の家に向かっている途中、いろんなことを考えた。

本当に死んじゃったんだろうか。今はまだ大丈夫だけど、亡骸を目の前にしたら泣いてしまうのだろうか。

 

 

祖父の家が近づけば近づくほど、空恐ろしさも増していく。

今引き返してしまえば、実際にこの目で確認しなければ、本当に死んだかわからないと言い張れるぞ、なんて、どうせ出来やしないことが脳裏をよぎる。

 

 

いつまでも愛犬の死と向き合えないまま、ついに門の前まで来てしまった。

いつもなら犬小屋から出てきて俺を出迎えてくれる姿が、今日は見えない。

 

とりあえず、最初に祖父への挨拶のため一旦家に上がることにした。

祖父の家には、玄関を上がった先に家の裏側が見える大きい窓がある。

 

 

 

 その窓の向こう側。

見つけたくなかった探しモノは、その窓の向こう側にあった。

 

 

窓ガラスを挟んでくすんだ光景の真ん中で、急いで用意されたらしいかごに窮屈そうに収まっていて、白い布に覆われたその顔は、そこから窺うことはできなかった。

 

 

明らかに生気がない。

当たり前だ。モンタンはもう、そこにはいないのだから。

 

 

祖父への挨拶を済ませると、さっそく亡骸を表へもってきてくれた。

最後を見てやってくれ、と白い布も取られた。

 

安らかな顔だろう、と祖父が言うその顔は、とても硬くて冷たい無表情だ。

 

本当は何かの間違いで、今触ったらもしかして何か反応が返ってくるんじゃないか

 

そう思っておなかを撫でようと伸ばした手が触れたその瞬間、もうその手を動かすことができなかった。

 

 

期待していた柔らかさは最早そこになく、

その身体の硬さが、

その冷たい無表情が、

俺の哀れな願いの一切を否定し、俺に残酷な現実を突きつける。

 

 

限界だった。

つたう涙をどうする気にもならず、ただただ、手を添えることしかできなかった。

 

 

つい2週間前に会いに来たときは、あんなに元気だったじゃないか。

腰悪いくせに、俺の前をぐるぐる歩き回っていたじゃないか。

あげる予定だったおやつも、まだ残ってるんだよ。

 

 

頼むから、そんな顔してないで、いつものアホ面を見せてくれよ。

 

 

別れの日はいつか来る。そんなこと分かってた。

覚悟も、とっくに決めたつもりだった。

 

だからこそ、いつその日が来ても後悔しないように過ごしてきた。

でもそうしてきたから、思い出を重ねてきたから、今はその記憶がかえってつらい。

 

 

水が嫌いなのに、水たまりに足突っ込んで勝手にびっくりして暴れたことも、

小屋から脱走して、俺が追いかけに行くのを待って見つめてくるあの顔も、

キャベツの芯欲しさに異常に興奮して俺にとびかかってきたことも、

お気に入りの散歩コースも、

息遣いも、

手触りも、

 

思い出されるそれら全てがひたすらにつらかった。

 

 

 

 

時間が俺を待ってくれるはずもなく、それから1時間もしないうちに亡骸は施設へ運ばれ、火葬の火にかけられた。

 

再びモンタンにあった時には骨と炭だけになっていて、愛犬がこの世に生きた証はいよいよ無くなろうとしていた。

 

 

このひときわ大きい骨が頭で、この細いのは手足。

こんなに小さくて細いものが組み合わさって、生きていたんだ。

 

17年間、よく頑張ったなぁ。

 

 

その場にいた全員で骨を骨壺に収め、本当の別れの時が来た。

骨壺は祖父が引き取り、庭に埋めるそうだ。

 

祖父母と別れた後、愛犬の存在はついに俺の記憶の中にしかなくなってしまった。

 

 

 

その帰り道も、この文章を書いてる今も、色んなことがフラッシュバックしてくる。

 

 

あんなことしたよなって、本当にかわいいやつだったなって。

最後の瞬間に、一緒にいてやれなくてごめん。

 

 

俺と一緒にいた時間、お前はしあわせだったかな。 

お前と一緒にいた時間、俺はしあわせだった。

 

 

どんな日でも、帰ってくればいつもそこにいてくれたから、

 

俺は救われていたんだ。

 

 

 

お前と逢うまでの、17年前のことなんて覚えてないから、お前のいない世界を俺は知らんぞ。

 

これからどうすればいいんだっていうと大げさかもしれないけど、

 

俺なりに大切に思ってたんだぜ。

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなこと誰に向かって書いてるのか分からないし、

ありがとうだとかごめんとか今更並べても、何かが変わるわけじゃないけど。

 

 

何かが変わるわけじゃないけど、

俺と君とが別れた今日のことを、少しでも書いておきたいから、ここに留めておくことにしよう。

 

 

 

しばらくは離れ離れだけど、できるだけ上を向いて過ごすよ。 

お前が俺の顔までよく見えるように。

 

だから俺のこれからを、そこで見ていてくれ。

 

 

 

 

お前のことは忘れられそうにないけど、

いつか、俺がペットを飼うそのときはまた、

お前さんみたいな、いたずら好きの柴犬がいいな。

 

 

 

 

 

 

 

 今まで、どうもありがとう。また会える日まで。

 

 

 

 

 

 

“働きたくない”学生が真面目に向き合ってみた!~クソくらうべきは就活か自分か…!!~ そのいち

 

こんばんは~

 

らっしーです。。絶賛廃人期間中です。

(春休みだし良いよね~_(:3 」∠)_)

 

 

今回はいつものような感じではなくただのボヤキです。笑

 

今日書くことは、最初はふとした思いつきでした。笑

 

でも「意外とこれからの自分にとって大事かも?」とも思えてきたので、ここに書き留めておこうかなーというノリで書いていきます。

 

 

 

ついに迎えた「三月一日」

 

少し前、3/1に就活解禁日を迎えました…。

このブログを読んでくれている人たちの多くは僕と同期だと思うので、"解禁日"の3文字に嫌気がさしてこのページを閉じようとしている人も多いんじゃないでしょうかw

 

ここはぐっとこらえて、読み進めてくれたら嬉しいです、ただのボヤキですけど 笑

 

 

さて、まずは3/1までの前置きをしなければなりませんね。今日は前置きだけ、お話したいと思います。

 

 

就活。

 

 

「こんなことしたい!」と発信して、真面目に頑張っている人もいます。

 

SNSでは何も言わないけれど、しっかりとやっている人もいます。いつの間にか就活終わってるパターンですね。僕の友達は3か月ほど前に内定をもらったりしていました。(すごすぎる)

 

嫌々ながらも取り組んでる人もいます。この部類が一番多いんじゃないかな。

強いて分類するなら僕もここに入ります。

 

 

いやぁ~、働きたくない。笑

 

働きたくないですねぇ~(2回目)

 

 

 「就活なんてクソくらえ!!!!!」と何度思ったことか(・言・)

 

 

あ、でも就活が嫌なんじゃないですよ?(矛盾)

入社希望者が自分の能力をアピールして、企業が採用するかどうか決めるというステップ自体は必要だと思います。

 

どちらかというと、嫌なのは就活全体のムード(?)です。

 

あんまり言ってしまうと顰蹙を買ってしまいそうなので少しだけにしておきますが…笑

 

例えばこの前参加した集団面接では、6人中3人が自己アピールで塾講師のバイトリーダーの話をしていました。

 

塾講の経験からこんなこと学べました!みたいな。

 

 

 

う~ん。

いや、普通に多すぎるというか…塾はとても学びに満ちた場所なんですねぇ(^^)な~んて皮肉めいた思いが…あははw

 

 

いやしょーがないでしょ!こう思ったって!!全部似たような話なんですもん!!!(逆ギレ)

 

 

身もふたもないですが、みんな苦労してひねり出してるんだろうなーと思います。僕もそうです。

 

「強み」とか「学び」とか言われても、普段そんなに真面目に過ごしてませんからパッと出てきません(自業自得)

 

そりゃ探せば「強み」っぽいものは出てきますけどね。。僕の場合は協調性だとか、忍耐力とかなら、並の人よりは強いんじゃないかなと思います。

 

でも、そんなの個人的にはどうでもいいんです。

別にそれを活かして仕事したいとか思ってない。

 

だから自分で「協調性が~」って話していると、

「どうしてこんなどうでもいいことをアピールしてるんだろう?」

と思ってしまうんです。

 

我ながらワケわかんないっすねww

めっちゃモヤモヤしてました。笑

 

いや、シンプルに考えれば、そんな「どうでもいいスキル(=特に意識しなくてもできること)」の範囲内でしか何かを成し遂げてこなかったのが原因だってことはすぐに分かります。

 

厄介だったのは、

「これは自分の"一番の"強みじゃないな」という確信があったことです。

 

 

だからこそ、具体例がある中から適当に取り繕っている自分をバカバカしく感じたんだろうと思います。

 

僕にしかない強みは他にある。ある程度見当もついてる。でも悲しいことに分かりやすい成功例がない。

 

 

具体例がない「強み」なんて、はたから見ればウソにしか聞こえませんから当然使えません。笑

 

「私は〇〇が最大の武器です!!これなら並の人には負けません!!まだ成功例はありませんけど!!」

 

みたいな?(笑)

とんだお笑い種です😇

 

 

結局その程度でしかないのは自分自身。

だけど、これは僕だけじゃないと思うんです。

 

 

 

・みんなも同じ!?(だといいな~笑)

 

この前友達が、

「今日のグループディスカッションで自分の強みは適応力だって言ったら、突っ込まれて返答に困った」という話をしてくれました。

 

僕が真っ先に抱いた感想は、

「あなたにはもっと強みがあると思う」でした。実際そう言いました。

 

 皆さんはどうですか?

「これが私の一番の強み!」といえるようなことを、もう見つけていますか…?

 

 

なんで僕も友達も(もしかしてあなたも?)、自分の一番の強みを話せないんでしょう?

 

 

「自己分析が足りない」

それもあると思います。ないとは言えません。でも、そんなに深く分析しないと出てこない強みなんてあるんでしょうか…?それは本当に強みなんでしょうか?

 

 

本当は大したことないこともエピソードを添えてそれっぽく「強み」にしたり、ちょっとした学びを大げさに話してみたり。

 

 

みんな多かれ少なかれ偽った姿で、偽りの相手と職をめぐって争っているようにも思えて、興が削がれるというか。。。

 

みんなもそうなのかなぁ、そういうのが就活なら、そんなことはしたくないなぁという思いを、この半年間ずっと抱えていました。

 

 

もちろん、こんな風にバカ正直に戦うよりも、適当に繕って内定もらった方が「楽」ではあります。

 

たとえば、僕はサークルの代表を務めていましたが、就活でその話をするつもりはありません。リーダーよりもやりたい/向いてるポジションがあると思っているので、代表経験をアピールしたってどうしようもないんです。

 

このやり方は自分に正直ではありますが、就活に関して言えば賢いとは言えないのかもしれません。

 

「代表経験有り」というステータスをプラスしていた方が、より評価されると思います。

 

つまり楽なんです。

だから、自分を取り繕ってしまうのかも。

 

 

少しでもマトモに。

少しでもしっかりと。

 

でも、そういう話をかき集めて出来上がった自分は、必ずしも自分の強みを含んでいるとは限りません。

 

 

そういう話で固めた自分が評価されて入った会社では「働きたくない」んです。

 

僕は、僕自身が「これだ」と思える自分を、企業に見てほしいです。

皆さんは、どうですか?

 

 

 

ここいらでいったん終わりにします!

(愚痴が2回にわたるという衝撃の事実…!笑)

 

 

次は「なぜ僕は割り切って就活できないのか」について話したい(愚痴りたい)と思います!!

 

 

ありがとうございました~~(^^)

 

 

 

少しだけ真面目なお話。。〜頻発する「モラル・パニック」を前に、僕らはどうあるべき?〜

 


新年あけましておめでとうございます!

そして今年もよろしくお願いします😄

 

さて、今日は以前お知らせしたとおり、前回の内容を踏まえたお話をしたいと思います!

(本当は年末には済ませたかったんですが、思ったより忙しくて年を跨いでしまいました…💦)

 

前回の記事を載せておくので、合わせて読んでみてください(^^)

 

 ↓↓前回の記事はこちら↓↓

la-ssi.hatenadiary.com

 

ざっと要約すると、

 

「最近の反差別派って暴走してない?本当に規制するべきものは何か、再考しようよ!」

みたいなことを言いました。

 

純ジャパ日本育ちで、本当の意味での差別を知らない僕がこういう話題に触れるのは結構不安だったんですが、最近こう思うことが本当に多くて、勢い余って書いてしまいました。(笑)

 

そんな話を踏まえた今日のお話はズバリ、

 

「モラルパニック」です!

 

 

前回の差別の話にもちょいちょい触れますが、

メインはこのモラルパニックでいきます。

 

 

これ、モラルハザードとはまた別物。。

 

我らが叡智、Wikipedia様によるとモラル・パニック(moral panic)とは、

 

モラル・パニックとは、ある種の文化的行動(多くの場合サブカルチャーに属する)や、ある種の人々(多くの場合、社会的・民族的マイノリティに属する)に対して、世間一般の間に「彼らは道徳や常識から逸脱し、社会全般の脅威となっている」という誤解や偏見、誇張された認識が広がることによって社会不安が起こり、これら「危険な」文化や人々を排除し社会や道徳を守ろうとして発生する集団パニックや集団行動である。

 

だそうです。

 

簡単に言うと、

 

「〇〇は社会の秩序を乱す!」という主張が人々を刺激し、

「悪には徹底的な制裁を!」という過激な雰囲気が蔓延している状態、またはその結果としての行為

 

がモラルパニックです。

 

最近の例として挙げられるのは、

 

Twitterでのつるし上げ(動画でさらされた人の住所や学校を特定し拡散)や、

 

秋葉原無差別殺人事件以降の「オタク」批判などですかね~

 

 

歴史的なものを含めると、魔女狩りなんかも良い例です。

 

 

さて、この話で僕が言いたいのは、

今の反差別にもそのような過剰な反応がありますよね?ということです。

 

 

何年か前に、とある白人サッカー選手がこう言いました。

 

『黒人選手が「黒人であることを誇りに思う」と言えば大いに称賛される。しかし、私が同じように白人の血を誇りにすればたちまち非難されるだろう。』

 

f:id:lassi:20190109193213j:plain

(※画像は二次創作です。)

 

 

 

人種差別とは、「血筋だけを基準に人を不当に扱う」ことであり、

反差別とはそれらを根絶することだったはずです。

 

 

それは、黒人を「黒い人」と形容することを咎めたり、白人の誇りを抑圧したりすることではなかったはずです。

 

 

 

モラルパニックによくみられる「過剰反応」が、この問題にも見受けられます。

 

 

「過剰反応」がモラルパニックのすべての例に当てはまるわけではありませんが、ほとんどの事例に共通しているのは、

 

①当事者(抑圧する側)は自分が正義だと思い込んでいる

②最終的な行動に根拠・正当性がない

③にもかかわらず、大勢の人が盲目的に同調してしまっている

 

ことです。これは僕の体感なので他にもあるかもしれませんが。(笑)

順にみていきたいと思います。

 

 

①当事者は自分が正義だと思い込んでいる

彼らも完全に間違っているわけではない、というのが厄介なポイントです。

 

たとえば、Twitterのつるし上げ。

 

「電車内にキチガイいてやばい」というツイートは元はと言えば、

「公共の場で騒いでいて迷惑だ」というマナー遵守の精神が根底にありますし、

 

 

 あるいは人種差別の件で言えば、「血筋で差別するのは不適切だ」という主張が大元ですよね。

 

 

そして、これらだけを見れば特に問題はないはずです。

 「公共の場で騒ぐな」「血筋で評価するな」という主張は、それだけならむしろ正しいくらい。

 

だからといって住所をさらして制裁を加えたり、

「白人」に過剰に反応して叩くのは的外れなんですが、

 

人々の社会不安を刺激してやればそれすら正当化されてしまうのです。

 

 

いくら目的が正しいからといって、何をしてもいいなんてことにはならないんですけどね。笑

 

もう「キチガイレイシストは社会的に悪!」という考えが凝り固まってしまっているので、

 

あたかも自分たちを絶対正義のように 錯覚してしまいます。

(余談ですが社会学的なことを少し。。現代人はこのように「自分ら(正常)と奴ら(異常)」の区分を作り、自分たちが「奴ら」側でないと確認し合うことで安心感を得ようとする傾向があるんだそうです。笑)

 

 

②最終的な行動に根拠・正当性がない

そして「勧善懲悪」を大義名分に徹底的に制裁をくわえて排除しようとするわけです。

 

自分たちこそが「正義」なので何をしてもいい、なんて自覚があるのかさえ微妙ですが(笑)、

 

そんな感じで解釈・行動に歯止めが利かなくなっていき……、、

 

 

「根拠はないけどなんか怪しいからあいつは魔女だ」と言って人を殺し。

SNSで癇に障った人の個人情報をさらしては無言電話などの嫌がらせを集団でしたり。

オタクにはキモイウザイと言いたい放題。

少しでも嫌だと思ったら「ハラスメント」。

 

 

もうどちらが加害者なのか分からなくないですか?(笑)

 

 

でもみんなが賛成することこそ正しいのでそれで良いということにされてしまいます。

 

その様子はまるで教祖なき洗脳みたいなもので、時に一般の善悪のルールからさえもはみ出してしまいます。

 

 

③大勢の人が盲目的に同調してしまっている

①で触れたように、彼らの主張は始まりこそ正しかっただけに響きもいいです。

明らかにおかしいというわけではないので、「なんかそれっぽい」だけで人々はつられてしまいます。

 

「高学歴の人の方が仕事ができる」

だとか、

「男性は男らしくたくましくあるべき」

だとか、

「勉強中に音楽はいけない」

だとか。(笑)

 

 

 まぁ上の3つはモラルパニックとはまた違いますが、

 

このように、あまり深く考えることなく周りの考えに同調してしまう、ということは皆さんにもあると思います。

 

それこそ、「黒人=アフリカ系」と言われて一度は納得してしまった僕がいい例ですね(^^;;)

 

 

加えて、1人で落ち着いて考えれば明確な善悪の基準も、

「大衆」としてまとまってしまうと曖昧になってしまいます。

 

これは人間ならある意味仕方のないことですが、どうしてもその場の空気・ムードに影響されてしまうからです。

 

しかし、その「空気」が誰かを抑圧するとき、それは強大な力でその人に襲いかかります。

 

ドラマ『リーガル・ハイ』では、堺雅人さん演じる古美門研介がいじめを扱った裁判で、そんな「空気」の恐ろしさについてこう語っています。

 

f:id:lassi:20190110103730j:plain

 

そもそも、いじめの正体とは一体何でしょう。

加害者生徒、教師、学校。いえ、そのどれもが本質ではありません。正体は、もっと恐ろしい物です。

それは教室だけでなく、職員室にも会社にも家庭にも、この国のあらゆる所に存在します。

我々は常にまわりの顔色をうかがい、流れに乗る事を強いられる。多数派は常に正義であり、異を唱える者は排除される。

…いじめの正体とは、「空気」です。特に右から 左、左から右へと全員で移動するこの国では、 空気と言う魔物の持つ力は強大です。

この敵の前では、法ですら無力かも知れません。全てを飲みこみ巨大化する恐ろしい怪物。

立ち向かうどころか逃げる事さえ困難な相手です。

 

 

 

 

 

・「立ち向かうどころか逃げることさえ困難な相手」

 

いじめだけではなく、平和や平等に関してもそれは強大な力を持つ。

僕らがこの先直面するのはそういうものなんだろうと思っています。 

 

 

でも差別にしてもハラスメントにしても、 

本当の意味で平和や平等、自由、権利といったものを追い求めたいのなら、この「空気」とはどこかで戦わなくてはいけない。

 

この「空気」は、

「何となくあれ良いよね~」「なんかあれは悪いよねぇ」といったスタンスで勝てる相手ではないし、

 

平等・平和もまたそんなに甘いものじゃない。

 

 

例えば、

「平和ボケしている」と揶揄される今の日本。

 

確かに戦争はあってはならないことですが、

「軍事力は戦争につながるから悪!」と叫ぶだけではいけない

 

じゃあアメリカに頼りきりでいいの?

ていうか、アメリカに守ってもらうのと軍事力を持つことは何が違うの?

そもそも軍事力あっても戦争してない国だって沢山あるんじゃない?

 

等々、考えることはたくさんあると思います。

 

「なんとなくダメ」では済ませられないはずです。

 

 

もちろん、「戦争はダメ」というのは絶対的に正しいとは思うんですが、

 

じゃあ全部捨ててしまえばいい、とはなりません。

 

丸腰になればかえって他国の侵攻を受けることだってあるかもしれないんですから。

 

 

そうなっては本末転倒ですよね…。

 

 

さて、、

 

平和の難しさについて、

僕の好きな言葉を最後に紹介したいと思います。

(とあるゲームに出てくる言葉ですが、これが結構深いですw)

 

だれかが守ってくれる平和など、正しいものではなかったのだろう。

結局、我々みんなが苦労して、平和を守らねばならんのだ。

 

 

だからもし、特に苦労してないけど今は平和だという実感があるのなら、

 

 それは単に気づいていないだけか、それとも誰かが代わりに守ってくれているのか、

 

 

いずれにせよ、それが崩れるのは時間の問題なのかもしれません。

 

 

 

つまり、何がダメで何なら許されるのか、というところをしっかりと考えていかなければ、平和も平等も実現できないということです。

 

そしてこれは僕の問題でもあり、あなたの問題でもある。

 

全員で向き合わなくてはいけないことだと思うんです!

全員で苦労してようやく守れるものだと思うんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いや〜、思ったよりも長くなってしまいました😅

最後まで読んでくれた方、ありがとうございます

m(_ _)mm(_ _)m

 

 

どうも最後は抽象的な話になってしまいましたが、

 

皆さんの見方が少しでも変わったなら嬉しいです_(:3 」∠)_

 

思考停止で避けすぎてはいけない 〜「黒」を必死で避ける僕らの「反差別」〜

 

 

こんにちは!

久しぶりにブログを動かそうと思います。笑

 

さて、今日は体育祭で僕が直面したことについての話をしたい思います!

 

…といっても、僕の体育祭ではありませんw

 

実は僕、日常で中学生と関わりを持つことが多いんです。その繋がりで彼らの体育祭へ行ったのが事の始まりです。

 

 

体育祭当日。

 

僕と知人の男性とで一緒に中学校へ赴き、馴染みの顔を探します。

 

先に見つけたのは僕でした。

僕は知人に知らせます。

 

僕「あっ、あれ○○君じゃないですか?」

知「本当ですか?どこらへんですか?」

僕「あそこです!あの…。」

 

 

僕はここで口をつぐみました。

頭に浮かんだ言葉を、そのまま表現していいものか、一瞬迷ったからです。

 

他の表現を探しましたが、ピンと来るものは浮かばなかったので、僕は諦めて知人に聞いてみました。

 

 

 

 

 

「…あの黒い男の子の隣、という表現はまずいですかね?」

 

 

 

知「それはまずいですね。」

 

 

即答でした。笑

 

 

これが、今回取り上げたい出来事です。

 

 

僕にとって、同じような身長で全員同じ体操服に身を包んだ中学生の集団の中の、たった1人を表現する難しさは相当でした。

 

その中で一際目立つ肌の色をした男の子が1人いたのです。彼は黒人でした。

 

知り合いの中学生はその子の隣にいたのです。

「黒い男の子の隣にいます」と言えば一発で伝わる。

 

ただこのご時世、「黒人」に関する表現には気をつけなければなりませんよね。

 

 

今日はそんな感じの話をしようと思います。

 

 

ここまで読んだ皆さんはどう思われますか?

 

 

あそこにいたのが僕ではなくあなただったら、どう対処したでしょうか?

 

少なくとも、知人にとってその表現はアウトだった、ということになりますが。

 

 

 

この話には少しだけ続きがあります。

 

知人の答えを聞いた僕は、そうか、と思いつつ、新しい疑問を口にしてみました。

 

「こういう時はどう言えばいいんでしょうね?」

 

 

知「アフリカ系の子とか?」

これまた即答です。笑

 

 

僕がなるほど、と言ったのがこの話題の最後でした。

 

 

 

さて、

 

ここでもう一度、同じ質問をしてみようと思います。

 

皆さんなら、どうしていましたか?

 

徹底して肌の色とは関係のない別の表現を探す?

それかなんの迷いもなく、「黒い男の子」と言い切るか。笑

 

あるいは、「黒い子」はダメだけど「アフリカ系」なら大丈夫なのでしょうか。

 

 

僕は、

 

「アフリカ系の子」か、それなら大丈夫そうだと思いました。

 

 

 

 

その時は。

 

 

 

ところが、

少し後になって、それは違うだろう、という思いがふと浮かんで、次の瞬間には確信に変わったのです。

 

 

確かに、黒い肌について言及すると、ときに差別的な意味合いを持つことがありますよね。

 

知人が「まずい」と言ったのもそれが理由だと言っていいと思います。

 

 

ただし、僕らはあの時、その子について肌の色しか目立った情報を持っていなかった。

 

ここで少なくとも1つ言えることは、

 

「アフリカ系」という表現の方がよっぽど偏見に満ちた表現だということです。

 

 

僕ら日本人より色黒の人なんて、アフリカに限らずアメリカにだって東南アジアにだって大勢います。

 

そもそも日本生まれの可能性だって0ではありません。

 

 

それなのに、「肌が黒い=アフリカ系」だなんて、なんともおかしな話じゃないですか。

 

それに比べれば、「黒人の子」という表現は事実しか述べていません。

 

 

ましてや、

肌が黒いからこうだ!というような主張は一切含んでいない。

 

 

 

にも関わらず、即座にアウトだと言われたんです。

 

なぜ知人の彼はその判断を下し、「アフリカ系」なら問題ないと思ったのでしょうか?

 

そしてなぜ僕は一時的とはいえ、彼の意見に納得してしまったのでしょう?

 

 

実にパラダイムとは恐ろしいもので、知らず知らずのうちに僕らの潜在意識に影響を及ぼしているものなのでしょうか。

 

そうなれば、何がパラダイムを作っているのかなんてもう分かんないですね😅

 

そんなものに多大な影響を受けているとしたら、

 

 

直感とはつくづくあてにならないものです。

 

 

 

もっとも、理性的な答えがいつも正解だとも思ってませんが、一度立ち止まって深く考えてみることもやっぱり大切だと思います(@_@)

 

「前回と終わらせ方が同じじゃん!!!」

 

とか思ったそこのアナタ、世の中には言わない方がいいこともあるってもんです(・∀・)

(こんなブログを読んでくれてありがとうございます😎)

 

 

 

今回はこの辺で一旦終わりにしようと思いますが、この話題で次も書く予定です!

 

それでは🙌🏻🙌🏻

 

 

【余談】

 

何だかんだで、

僕の表現も悪かったのかもしれないと今は思います。

 

「黒い男の子」

ではなく、

「色黒の子」

みたいな言い方をすればもう少しましなニュアンスで聞こえるような気もします。

 

ただ文字だけを見ればどちらも言ってることはほぼ同じで、

 

この2つに僕が感じるほどのニュアンスの差はないようにも思えます。笑

 

 

不思議ですね_(:3 」∠)_

 

 

僕と音楽と勉強と。

 

 

こんにちは!!

 

前回の情報量0の記事(というかただの意思表明w)が意外と読まれていて驚いています。笑

(ありがとうございますm(_ _)m)

 

 

はてさて、

 

今日は普通に軽い話をしようかなと思います!

 

 

皆さん、音楽は好きですか??

 

僕は大好きです。

特に音楽聴くのが好きで、いつも聴いています(^^♪

 

 

今も音楽聴きながらこれを書いています(笑)

(流れているのは清水翔太の「HOME」です。)

 

こんな感じで音楽好きな僕ですが、

音楽聴くのが好きすぎて、

中学生の頃から勉強するときはいつも音楽を聴きながらでした。

 

しかし、この話を人にすると大抵こんな反応が返ってきます。

 

「え、勉強してる時に音楽って良くないんじゃないの?」

 

音楽に気を取られて集中力が落ちてしまうんじゃないか、という話ですね。

 

 

確かに、

学校や塾などの教育機関が、音楽を聴きながらの勉強を推奨しているところは見たこともないです(^^;)

 

「音楽が集中力を妨げる」という研究も、

きっと探せばいくらでも見つかると思います。

 

 

でも僕は思うのです。

 

「だから何ですか?」と。

(↑謎のケンカ腰)

 

 

誤解のないよう断っておきますが、何も僕は

「音楽が集中力を妨げる」というデータを否定するつもりはありません。

 

そこではなく、

 

「音楽が集中力を妨げる」というデータがあるだけで、

「作業中に音楽は控えよう!」となってしまうところに強く疑問を覚えるのです。

 

勉強が集中力だけで決まるならそれは正しいと思います。

でも実際は効率だけじゃないですよね。

 

なぜなら、

仕事量=効率×時間

 

なんですから。

 

極端な話ですが、

仮に僕が勉強中の音楽をやめて集中力が増し、効率が最大値になったとしましょう。

 

その場合、僕の頭に浮かぶ等式はこうです。

 

効率(最大値)×時間(0分)=仕事量=0

 

音楽無しでは勉強する気にすらならない。

昔から本気でこれを考えていました。

 

 

それくらい僕にとって音楽は不可欠だったのです。

模範的だなんて微塵も思いませんが、それが現実でした。

 

 

確かに音楽を聴くことで効率は落ちていたでしょう。

 

それでも、音楽のおかげで継続的に勉強できたということもまた、

紛れもない事実なんです。

 

 

それに、音楽を聴いていたって集中することはできます。

 

「気づいたらいつの間にか3・4曲進んでた」

 

なんてこともしょっちゅうでした。

 

 

・まとめ

 

勉強法は人それぞれです。

音楽を聴くことが吉と出る人も凶と出る人もいると思います。

 

それは時間と効率の2つの要素が絡んでくるからです。

 

だから僕は、

勉強中に音楽を聴くことが必ずしも悪いことだとは思いません。

 

物事を要素に分解して捉えてみる。意外と重要ですね。

 

これは勉強以外にも言えます。

今回は「効率と時間」でしたが、世界は様々な要素で満ちています。

 

例えば人付き合いは「効率(コミュニケーションの質)と時間」だけでは語れませんよね。

 

他にもっと要素があるはずです。

 

 

こんな風にして、自分のやり方を探してみるのも悪くないんじゃないでしょーか!!

 

 

・おまけ

 

ちなみに勉強中に音楽を聴いていた僕ですが、

その後の休憩時間も、もちろん音楽を聴いていました☆

 

 

それじゃー今回はこんな感じで!!