何かが変わるわけじゃないけど。
「この世のすべてのタピオカを手に入れたら、俺は日本中の女子高生と女子大生を従えることができるのではないか」
他意はない。
この日本社会において最強と謳われるJK・JDといえども、タピオカには敵わないだろう。そう思えるほどに彼らのタピオカへの情熱はすさまじい。
そして俺の推理に間違いがなければ、これからの日本では、タピオカをもって彼らを従えた者こそが最強の称号を手に入れることになる。
フットサルをしに行く準備中、俺は歯を磨きながらそんなことを考えていた。
しかし、そんな妄想は一本の電話によってぶち壊される。
母親からだった。
「モンタン、死んじゃったって」
時が止まった…というようなお決まりのパターンはなく、「ついにか」という淡白な感想しかなかった。それはある程度覚悟をしていたせいなのか、まだ実感が湧いていなかったせいなのかは、今もわからない。
電話は、今日中に火葬をするからお前も来い、というものだった。
すぐさまフットサルの予定をキャンセルし、モンタンに会いに行くことにした。
モンタンとは、祖父の飼い犬のことだ。
ごく普通の柴犬で、いたずらとキャベツの芯と食パンが大好きなオス。
毎年、休み期間に帰省すれば一緒に遊んでいたし、今年の2月までは祖父の家から大学へ行っていたので、ここ数年はずいぶん長い時間を共に過ごしていたことになる。
今年で17歳と、平均寿命よりだいぶ長生きしていた。その分身体のあちこちにガタが来ているようで、目は白内障でほとんど見えておらず、歯は抜け落ち、腰が弱って歩き方もフラフラだった。
俺が大学へ通いだしたころから既にそんな調子だったので、本当にいつ別れの時が来てもおかしくないという状態だった。
どうやら、その時が来たらしい。
電話を切って残りの身支度を済ませた俺は、鏡の中でほんの少しだけ目を赤くしていた。
祖父の家に向かっている途中、いろんなことを考えた。
本当に死んじゃったんだろうか。今はまだ大丈夫だけど、亡骸を目の前にしたら泣いてしまうのだろうか。
祖父の家が近づけば近づくほど、空恐ろしさも増していく。
今引き返してしまえば、実際にこの目で確認しなければ、本当に死んだかわからないと言い張れるぞ、なんて、どうせ出来やしないことが脳裏をよぎる。
いつまでも愛犬の死と向き合えないまま、ついに門の前まで来てしまった。
いつもなら犬小屋から出てきて俺を出迎えてくれる姿が、今日は見えない。
とりあえず、最初に祖父への挨拶のため一旦家に上がることにした。
祖父の家には、玄関を上がった先に家の裏側が見える大きい窓がある。
その窓の向こう側。
見つけたくなかった探しモノは、その窓の向こう側にあった。
窓ガラスを挟んでくすんだ光景の真ん中で、急いで用意されたらしいかごに窮屈そうに収まっていて、白い布に覆われたその顔は、そこから窺うことはできなかった。
明らかに生気がない。
当たり前だ。モンタンはもう、そこにはいないのだから。
祖父への挨拶を済ませると、さっそく亡骸を表へもってきてくれた。
最後を見てやってくれ、と白い布も取られた。
安らかな顔だろう、と祖父が言うその顔は、とても硬くて冷たい無表情だ。
本当は何かの間違いで、今触ったらもしかして何か反応が返ってくるんじゃないか
そう思っておなかを撫でようと伸ばした手が触れたその瞬間、もうその手を動かすことができなかった。
期待していた柔らかさは最早そこになく、
その身体の硬さが、
その冷たい無表情が、
俺の哀れな願いの一切を否定し、俺に残酷な現実を突きつける。
限界だった。
つたう涙をどうする気にもならず、ただただ、手を添えることしかできなかった。
つい2週間前に会いに来たときは、あんなに元気だったじゃないか。
腰悪いくせに、俺の前をぐるぐる歩き回っていたじゃないか。
あげる予定だったおやつも、まだ残ってるんだよ。
頼むから、そんな顔してないで、いつものアホ面を見せてくれよ。
別れの日はいつか来る。そんなこと分かってた。
覚悟も、とっくに決めたつもりだった。
だからこそ、いつその日が来ても後悔しないように過ごしてきた。
でもそうしてきたから、思い出を重ねてきたから、今はその記憶がかえってつらい。
水が嫌いなのに、水たまりに足突っ込んで勝手にびっくりして暴れたことも、
小屋から脱走して、俺が追いかけに行くのを待って見つめてくるあの顔も、
キャベツの芯欲しさに異常に興奮して俺にとびかかってきたことも、
お気に入りの散歩コースも、
息遣いも、
手触りも、
思い出されるそれら全てがひたすらにつらかった。
時間が俺を待ってくれるはずもなく、それから1時間もしないうちに亡骸は施設へ運ばれ、火葬の火にかけられた。
再びモンタンにあった時には骨と炭だけになっていて、愛犬がこの世に生きた証はいよいよ無くなろうとしていた。
このひときわ大きい骨が頭で、この細いのは手足。
こんなに小さくて細いものが組み合わさって、生きていたんだ。
17年間、よく頑張ったなぁ。
その場にいた全員で骨を骨壺に収め、本当の別れの時が来た。
骨壺は祖父が引き取り、庭に埋めるそうだ。
祖父母と別れた後、愛犬の存在はついに俺の記憶の中にしかなくなってしまった。
その帰り道も、この文章を書いてる今も、色んなことがフラッシュバックしてくる。
あんなことしたよなって、本当にかわいいやつだったなって。
最後の瞬間に、一緒にいてやれなくてごめん。
俺と一緒にいた時間、お前はしあわせだったかな。
お前と一緒にいた時間、俺はしあわせだった。
どんな日でも、帰ってくればいつもそこにいてくれたから、
俺は救われていたんだ。
お前と逢うまでの、17年前のことなんて覚えてないから、お前のいない世界を俺は知らんぞ。
これからどうすればいいんだっていうと大げさかもしれないけど、
俺なりに大切に思ってたんだぜ。
こんなこと誰に向かって書いてるのか分からないし、
ありがとうだとかごめんとか今更並べても、何かが変わるわけじゃないけど。
何かが変わるわけじゃないけど、
俺と君とが別れた今日のことを、少しでも書いておきたいから、ここに留めておくことにしよう。
しばらくは離れ離れだけど、できるだけ上を向いて過ごすよ。
お前が俺の顔までよく見えるように。
だから俺のこれからを、そこで見ていてくれ。
お前のことは忘れられそうにないけど、
いつか、俺がペットを飼うそのときはまた、
お前さんみたいな、いたずら好きの柴犬がいいな。
今まで、どうもありがとう。また会える日まで。