lassiのブログ

日々の思い付きやひらめきをつらつらと。。

少しだけ真面目なお話。。〜頻発する「モラル・パニック」を前に、僕らはどうあるべき?〜

 


新年あけましておめでとうございます!

そして今年もよろしくお願いします😄

 

さて、今日は以前お知らせしたとおり、前回の内容を踏まえたお話をしたいと思います!

(本当は年末には済ませたかったんですが、思ったより忙しくて年を跨いでしまいました…💦)

 

前回の記事を載せておくので、合わせて読んでみてください(^^)

 

 ↓↓前回の記事はこちら↓↓

la-ssi.hatenadiary.com

 

ざっと要約すると、

 

「最近の反差別派って暴走してない?本当に規制するべきものは何か、再考しようよ!」

みたいなことを言いました。

 

純ジャパ日本育ちで、本当の意味での差別を知らない僕がこういう話題に触れるのは結構不安だったんですが、最近こう思うことが本当に多くて、勢い余って書いてしまいました。(笑)

 

そんな話を踏まえた今日のお話はズバリ、

 

「モラルパニック」です!

 

 

前回の差別の話にもちょいちょい触れますが、

メインはこのモラルパニックでいきます。

 

 

これ、モラルハザードとはまた別物。。

 

我らが叡智、Wikipedia様によるとモラル・パニック(moral panic)とは、

 

モラル・パニックとは、ある種の文化的行動(多くの場合サブカルチャーに属する)や、ある種の人々(多くの場合、社会的・民族的マイノリティに属する)に対して、世間一般の間に「彼らは道徳や常識から逸脱し、社会全般の脅威となっている」という誤解や偏見、誇張された認識が広がることによって社会不安が起こり、これら「危険な」文化や人々を排除し社会や道徳を守ろうとして発生する集団パニックや集団行動である。

 

だそうです。

 

簡単に言うと、

 

「〇〇は社会の秩序を乱す!」という主張が人々を刺激し、

「悪には徹底的な制裁を!」という過激な雰囲気が蔓延している状態、またはその結果としての行為

 

がモラルパニックです。

 

最近の例として挙げられるのは、

 

Twitterでのつるし上げ(動画でさらされた人の住所や学校を特定し拡散)や、

 

秋葉原無差別殺人事件以降の「オタク」批判などですかね~

 

 

歴史的なものを含めると、魔女狩りなんかも良い例です。

 

 

さて、この話で僕が言いたいのは、

今の反差別にもそのような過剰な反応がありますよね?ということです。

 

 

何年か前に、とある白人サッカー選手がこう言いました。

 

『黒人選手が「黒人であることを誇りに思う」と言えば大いに称賛される。しかし、私が同じように白人の血を誇りにすればたちまち非難されるだろう。』

 

f:id:lassi:20190109193213j:plain

(※画像は二次創作です。)

 

 

 

人種差別とは、「血筋だけを基準に人を不当に扱う」ことであり、

反差別とはそれらを根絶することだったはずです。

 

 

それは、黒人を「黒い人」と形容することを咎めたり、白人の誇りを抑圧したりすることではなかったはずです。

 

 

 

モラルパニックによくみられる「過剰反応」が、この問題にも見受けられます。

 

 

「過剰反応」がモラルパニックのすべての例に当てはまるわけではありませんが、ほとんどの事例に共通しているのは、

 

①当事者(抑圧する側)は自分が正義だと思い込んでいる

②最終的な行動に根拠・正当性がない

③にもかかわらず、大勢の人が盲目的に同調してしまっている

 

ことです。これは僕の体感なので他にもあるかもしれませんが。(笑)

順にみていきたいと思います。

 

 

①当事者は自分が正義だと思い込んでいる

彼らも完全に間違っているわけではない、というのが厄介なポイントです。

 

たとえば、Twitterのつるし上げ。

 

「電車内にキチガイいてやばい」というツイートは元はと言えば、

「公共の場で騒いでいて迷惑だ」というマナー遵守の精神が根底にありますし、

 

 

 あるいは人種差別の件で言えば、「血筋で差別するのは不適切だ」という主張が大元ですよね。

 

 

そして、これらだけを見れば特に問題はないはずです。

 「公共の場で騒ぐな」「血筋で評価するな」という主張は、それだけならむしろ正しいくらい。

 

だからといって住所をさらして制裁を加えたり、

「白人」に過剰に反応して叩くのは的外れなんですが、

 

人々の社会不安を刺激してやればそれすら正当化されてしまうのです。

 

 

いくら目的が正しいからといって、何をしてもいいなんてことにはならないんですけどね。笑

 

もう「キチガイレイシストは社会的に悪!」という考えが凝り固まってしまっているので、

 

あたかも自分たちを絶対正義のように 錯覚してしまいます。

(余談ですが社会学的なことを少し。。現代人はこのように「自分ら(正常)と奴ら(異常)」の区分を作り、自分たちが「奴ら」側でないと確認し合うことで安心感を得ようとする傾向があるんだそうです。笑)

 

 

②最終的な行動に根拠・正当性がない

そして「勧善懲悪」を大義名分に徹底的に制裁をくわえて排除しようとするわけです。

 

自分たちこそが「正義」なので何をしてもいい、なんて自覚があるのかさえ微妙ですが(笑)、

 

そんな感じで解釈・行動に歯止めが利かなくなっていき……、、

 

 

「根拠はないけどなんか怪しいからあいつは魔女だ」と言って人を殺し。

SNSで癇に障った人の個人情報をさらしては無言電話などの嫌がらせを集団でしたり。

オタクにはキモイウザイと言いたい放題。

少しでも嫌だと思ったら「ハラスメント」。

 

 

もうどちらが加害者なのか分からなくないですか?(笑)

 

 

でもみんなが賛成することこそ正しいのでそれで良いということにされてしまいます。

 

その様子はまるで教祖なき洗脳みたいなもので、時に一般の善悪のルールからさえもはみ出してしまいます。

 

 

③大勢の人が盲目的に同調してしまっている

①で触れたように、彼らの主張は始まりこそ正しかっただけに響きもいいです。

明らかにおかしいというわけではないので、「なんかそれっぽい」だけで人々はつられてしまいます。

 

「高学歴の人の方が仕事ができる」

だとか、

「男性は男らしくたくましくあるべき」

だとか、

「勉強中に音楽はいけない」

だとか。(笑)

 

 

 まぁ上の3つはモラルパニックとはまた違いますが、

 

このように、あまり深く考えることなく周りの考えに同調してしまう、ということは皆さんにもあると思います。

 

それこそ、「黒人=アフリカ系」と言われて一度は納得してしまった僕がいい例ですね(^^;;)

 

 

加えて、1人で落ち着いて考えれば明確な善悪の基準も、

「大衆」としてまとまってしまうと曖昧になってしまいます。

 

これは人間ならある意味仕方のないことですが、どうしてもその場の空気・ムードに影響されてしまうからです。

 

しかし、その「空気」が誰かを抑圧するとき、それは強大な力でその人に襲いかかります。

 

ドラマ『リーガル・ハイ』では、堺雅人さん演じる古美門研介がいじめを扱った裁判で、そんな「空気」の恐ろしさについてこう語っています。

 

f:id:lassi:20190110103730j:plain

 

そもそも、いじめの正体とは一体何でしょう。

加害者生徒、教師、学校。いえ、そのどれもが本質ではありません。正体は、もっと恐ろしい物です。

それは教室だけでなく、職員室にも会社にも家庭にも、この国のあらゆる所に存在します。

我々は常にまわりの顔色をうかがい、流れに乗る事を強いられる。多数派は常に正義であり、異を唱える者は排除される。

…いじめの正体とは、「空気」です。特に右から 左、左から右へと全員で移動するこの国では、 空気と言う魔物の持つ力は強大です。

この敵の前では、法ですら無力かも知れません。全てを飲みこみ巨大化する恐ろしい怪物。

立ち向かうどころか逃げる事さえ困難な相手です。

 

 

 

 

 

・「立ち向かうどころか逃げることさえ困難な相手」

 

いじめだけではなく、平和や平等に関してもそれは強大な力を持つ。

僕らがこの先直面するのはそういうものなんだろうと思っています。 

 

 

でも差別にしてもハラスメントにしても、 

本当の意味で平和や平等、自由、権利といったものを追い求めたいのなら、この「空気」とはどこかで戦わなくてはいけない。

 

この「空気」は、

「何となくあれ良いよね~」「なんかあれは悪いよねぇ」といったスタンスで勝てる相手ではないし、

 

平等・平和もまたそんなに甘いものじゃない。

 

 

例えば、

「平和ボケしている」と揶揄される今の日本。

 

確かに戦争はあってはならないことですが、

「軍事力は戦争につながるから悪!」と叫ぶだけではいけない

 

じゃあアメリカに頼りきりでいいの?

ていうか、アメリカに守ってもらうのと軍事力を持つことは何が違うの?

そもそも軍事力あっても戦争してない国だって沢山あるんじゃない?

 

等々、考えることはたくさんあると思います。

 

「なんとなくダメ」では済ませられないはずです。

 

 

もちろん、「戦争はダメ」というのは絶対的に正しいとは思うんですが、

 

じゃあ全部捨ててしまえばいい、とはなりません。

 

丸腰になればかえって他国の侵攻を受けることだってあるかもしれないんですから。

 

 

そうなっては本末転倒ですよね…。

 

 

さて、、

 

平和の難しさについて、

僕の好きな言葉を最後に紹介したいと思います。

(とあるゲームに出てくる言葉ですが、これが結構深いですw)

 

だれかが守ってくれる平和など、正しいものではなかったのだろう。

結局、我々みんなが苦労して、平和を守らねばならんのだ。

 

 

だからもし、特に苦労してないけど今は平和だという実感があるのなら、

 

 それは単に気づいていないだけか、それとも誰かが代わりに守ってくれているのか、

 

 

いずれにせよ、それが崩れるのは時間の問題なのかもしれません。

 

 

 

つまり、何がダメで何なら許されるのか、というところをしっかりと考えていかなければ、平和も平等も実現できないということです。

 

そしてこれは僕の問題でもあり、あなたの問題でもある。

 

全員で向き合わなくてはいけないことだと思うんです!

全員で苦労してようやく守れるものだと思うんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いや〜、思ったよりも長くなってしまいました😅

最後まで読んでくれた方、ありがとうございます

m(_ _)mm(_ _)m

 

 

どうも最後は抽象的な話になってしまいましたが、

 

皆さんの見方が少しでも変わったなら嬉しいです_(:3 」∠)_